JALT Testing & Evaluation SIG Newsletter
Vol. 14 No. 2. October 2010. (p. 6 - 10) [ISSN 1881-5537]
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偏差値の生みの親・桑田昭三氏へのインタービュー

インタビュアー:ニューフィールーズ ティモシ  和文:齋藤典子

 小学校から高校まで、日本の学校教育の中で偏差値の洗礼を浴びない子供はほとんどない。そして偏差値に一喜一憂した思い出を持つ大人も少なくない。偏差値が登場したのは、1960年代の中頃。それが受験生の学力を測る「ものさし」、あるいは人々の優劣を示す指標として、またたく間に日本社会に浸透した。受験生にとって恐怖の「偏差値」も 受験指導をする側にとっては、強力な説得力を持つ便利な道具として、50年間、その威力を発揮してきた。しかし、その一方で偏差値遍重教育の元凶として厳しい批判も浴びている。これほど日本人にとって馴染み深い「偏差値」だが、意外にもこの偏差値について、理解と知識を持つ人は少ない。そこで偏差値の生みの親とされる桑田昭三氏に「偏差値」について語っていただいた。

 桑田昭三氏プロフィール
 昭和3年生まれ  
 長野県飯田市生まれ
 上田繊維専門学校(現 信州大学繊維学部)卒業
 長野県-東京都の公立中学校の理科教師として勤務1950年4月 〜1963年3月 
 民間研究機関において偏差値を含むテスト学の研究に従事 1963年4 月〜1980年  

Q: 教育評価について関心を持つきっかけはどのようなことでしたか?

A: 私は,教員養成系の大学の出身ではないので、専門的に教育評価論や教育指導法を学んで来たわけではありません。ですから、教育評価に関心を持って「偏差値」(注)を考えた訳ではなく、偏差値を追いかけている間に、いつの間にか、教育評価学が座右に来てしまったのです。日本の教育評価の思想は、主に戦後、アメリカから移入されたものでした。昭和21年、アメリカからやってきたGHQ-CIE(連合局最高総司令官総司令部民間情報教育局)の教育審議官は、教育評価活動が行われていない日本の教育に驚いたようです。 アメリカでは20世紀の初め、心理学者のソーンダイク(E. L. Thorndike)が「教育測定運動」〈客観式の標準テスト問題を用いて学力を測定評価する運動〉を大々的に展開しました。日本にも1930年頃、こうした運動が芽生えましたが、伝統的で権威的な日本の教育土壌には不向きだったようで、根付くまでには至りませんでした。それまでの日本の教育は、中学から大学までテストは「試験」と呼ばれる論述式で、評価は担当の先生が結果を見て「よし」と判断したら合格、「駄目」と判断したら不合格になるという いわゆる「絶対評価」をやっていました。つまり、私が偏差値利用を考えだすまで、教育現場にはテストの得点の教育的意味や価値、評価のあり方などに関心を抱く教員はほとんどいなかったということです。日本の教育現場に「論理的統計学的な考え方」が取り入れられるようになったのは、戦後の教育改革に伴い「相対評価」という児童生徒の学力評価の仕方が導入されてからです。それは「平均的な人の学力と比べて、どれくらい優れているか、劣っているかを5段階で表示する」というご存じの評価方法です。しかし当時、学校では指導要録や通信簿などの文書の記入以外では、「相対評価」を利用していませんでした。 つまり、試験をやり,順位を付け、それを学力の指標として指導に当たるという、戦前来の方法とあまり変わらない学力評価が行われていたということです。

Q: 偏差値を生み出す直接的なきっかけは何でしたか?

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A: 東京都の教員になって2年目、『志望校判定会議』が開かれた時のことです。進学を志望する生徒一人一人の校内テストの成績と志望校を成績順に印刷した一覧表を前にして、進学係の先生が「この生徒はまずは問題ないでしょう」「この生徒は1ランク下の学校に変更するよう指導すべきでしょう」と、判定結果 を順次発表していくのです。ところが私が受け持つ生徒が、一番違いで志望校変更の宣告を受けてしまったのです。生徒に「君の力なら大丈夫! 心配せずに頑張れ!」と励ましたばかりでした。それを今さら「1点足りないから1ランク下げなさい」とは言えません。頭の中が真っ白になってしまった私は、夢中で「どうして?論理的な説明をお願いします!」と、執拗に迫りました。しかし、進学係の先生から「判定は、前年度までの合格状況と私たちの勘を総合した結果だとしか、説明できない。この判定が不服だとする根拠を桑田先生こそ、『論理的』に説明して頂きたい」と逆襲されてしまいました。このことがきっかけとなり「これでよいのか、お前も教え子たちも!」と自問に苛まれた末、進学指導の科学(後の偏差値)への挑戦を決意しました。
 それから3年、暗中模索の中、試行を繰り返した末に偏差値誕生に繋がる「ケトレーの法則」に出会ったのです。つまり、『入学試験における受験生の学力分布は、正規分布であるとみなすことができる』と仮定し、高校ごとの入試実態の解析を進めて行けば、道が開けるに違いないという考えに至ったのです。というのも、その生徒は志望通りの学校を受験し、不合格になってしまったのです。その時の、生徒に対する贖罪の思いと、教師としての自分の不甲斐無さが、この偏差値を生むきっかけになり原動力になったとも言えます。

Q: 当時、偏差値の概念はあったのですか?

A: 日本では、心理測定の分野には存在しましたが、学力測定の分野には全くと言っていいほど普及していませんでした。歴史的には1900年前後、アメリカの心理学者ターマン(L.M.Terman)が知能測定の解析に、私の偏差値の概念と同様の手法を用いた論文を発表しているのが見られます。これが統計学的な発想を教育関連の分野に取り入れた最初ではなかったでしょうか。しかし、学力測定に初めて統計学的概念を持ち込んだのは、1920年前後ころ、教育測定運動を展開したソーンダイクや、テストの得点表示法に『Tスコアー』を用いることを考えたマッコール(McCall)でしょう。つまり、日本の教育は統計に関する限りでは、アメリカより40年ほど遅れていたということです。

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 私の編み出した「偏差値」は、アメリカから移入された相対評価の土台になっていた正規分布(Normal distribution)のアイデアを応用したテストの得点法の一種です。当時は「正規分布曲線」を「正規分配曲線」あるいは「正常分配曲線」などと呼んでいました。これを解析し、分配の原理を極めていけば、受験生の学力分布に到達し、受験生の学力分布の原点を極めれば確率論にあたる。つまり、順を追って数学的・統計学的理論に結びつけて組み立てることで、1点の得点差で合格、不合格が分かれることも志望校判定基準の確かさなども説明できるようになるはずだと考えたのです。
 ちなみに、「近代統計学の父」と呼ばれたベルギーの天文学者であり統計学者、社会学者でもあるケトレー(L.A.Queilet)は、BMI(Body Mass Index:身長の2乗で体重を割った値が22を標準体重、25以上を肥満とする人の肥満度を表す指数)理論に代表されるように、社会に見られる様々な現象を統計に取ると、限りなく正規分布に近くなることを『人間の能力の発展について-社会の物理学的試み-』という論文で発表しています。これは後に「大数の法則」と呼ばれる近代統計学の土台となった学理です。私はそれになぞらえて『受験の物理学』を構築しよう考えたのです。1万、2万、10万と、可能な限り大勢の受験生の学力データを集め、偏差値理論導入の当初に立てた入試に関する仮説の全てを実証的に検証してみようということでした。この志が、私の偏差値人生の入り口であり、生涯を懸けた課題にもなったのです。

Q: 「偏差値」は先生の思いに反し、正しく理解されてこなかった部分もあったかと思いますが、「偏差値」に関する先生のご研究はどのような成果を生み出されたのでしょうか?

A: マスコミも予備校も学校の先生方も、私が偏差値を編み出すに至った直接的な思いくらいは理解してくれていると思います。私が偏差値的理論を世に出して50年。平成3年に文部省の方針で偏差値が公立学校から追放されて20年近く経ちますが、現在もほぼそのまま大学入試の指標として使われています。それは、便利で間違いが少ない道具からだと思います。私は、「日本の教育評価を云々」というような大仰な考えで偏差値を編み出したわけではなく、入試で子どもたちの明暗を決める、学力テストの『1点の差』が持つ意味や価値を解明しただけです。したがって、社会的・学問的には、何ほどの成果も挙げられませんでした。つまり、私の課題は数学的処理が可能な形の受験生の学力データを出来るだけ多く集め、『受験生の学力分布は正規曲線に近くなる』という、私の仮説を実証することでした。しかし、1点の得点差の違いを科学的論理的に説明するとなると、学力テストは、ほんとうに生徒の学力を、測れるのか、測れないのか? 測れるとすれば、どれくらいの確かさで?といった初歩的な問題の解決から片付けねばなりません。例えば、測定の道具であるテスト問題の作り方。その妥当性。測定に伴い生じる可能性の高い誤差。その原因の除去。回避の可能性の有無の検証など。尽きることなく検証の対象が広がっていきました。その結果、学力テストによって測り得る生徒の学力的相対位置は、人間がいかに手を尽くしてもその時々、かつ各人各様に揺れ動くものであることなど、新たな発見も多くありました。しかし、これらはプライベートな成果で
あって、公共の学問・文化の発展にはわずかのお役にも立ち得ませんでした。いや、お役に立てなかったどころか、詰込教育・拝点主義思想を助長した元凶として、文部省(現 文部科学省)から指弾される結果になってしまいました。

A: 現在も指導要領がありますが、昭和40年前後は、指導要領を読んだことのない先生が大勢いたようです。私もその中の一人ですが・・・。教科書に書いてある知識・技能を正しく伝えることが教育だと思っている人が教師にも,父母にもいました。というよりも、それが普通でした。今でも教育を記号(言葉や文字の類)の操作行為で十分に達成できると思い込んでいる日本人は多いです。しかし、言葉で子供を教えられると思うのは、大人の思い上がりであることを特に偏差値に深く関わるようになって痛切に感じました。確かに知識や技能を伝えるのには、記号は欠くことのできない道具ですが、知識・技能の伝達が教育の全てではありません。例えば、その場その場で受け取った知識や技能を頭の中で上手に組み立て、形の像(構造物)を造り、将来にわたり子供自身が大事に育てあげて欲しいという、熱い願いが教師になければ教育の営みは、成り立ちません。私は『願い』と表現していますが、これは、記号に換えられないため、表現が難しく、「心、心情」あるいは「熱情、愛情」と表現されるかもしれません。ちなみに、社会の困り者といった感情をもって「偏差値教育」「偏差値秀才」といった言葉が横行したことがあります。この言葉の定義や意味はわかりませんが、正統な教育の願いが欠如した教育、学問にならない知識しか持ち合わせない秀才のことを指しているのだろうと、私なりに理解しています。

Q: 偏差値を考案されてから、先生の教育評価に対する考えはどのように変わりましたか?

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 そして偏差値に関わるようになったお陰で、評価をもっと大事にしなくてはいけないと思うようになりました。偏差値を編み出すまでは、評価において、どの1点も同じ1点だと思っていました。それが毎回全く価値の違う、数学的操作の出来ない数値であることを知りました。それまでは、教科の評価をするのに学期内に行った複数回のテストの得点を合計し、その総点の高い人から順位を付け、『5』、『4』という評価の仕方をする先生はごく普通に見られました。こうした方法が、大きなしかも初歩的な誤りをしているとは夢にも思いませんでした。もちろん評価では、この成績が力一杯勉強した結果の得点なのか、そうでないのか、学習態度はどうだったのかなどなど、個々の生徒の顔を思い浮かべながら、よく検討しなければなりません。評価することは、褒めることと同じです。評価は、生徒にとって先生がどのように自分を見ていてくれるのか、あらためて問い直すことであり、同時に先生にとって、「教授すべき事柄を確実に伝えることが出来たのかどうか」自らを評価することだと思います。ですから、「教育とは何か?」と問われたとき、「教育って思いやりよ」、「教育とは願いよ」と、自分自身に返すようになりました。

Q: 「偏差値」の概念は他国でも広く使用されていますか?

A: 使われていないと思います。それは、日本のように古くから「勉強して、いい学校を出なければ、出世はおぼつかない」という学歴主義の発想がよそにはないからでしょう。日本では金持ちになっても、出世したことにはあまりならないですからね。入学試験が非常に厳しい台湾、中国、韓国でも偏差値は使っていません。親も子も上級学校への進学を学校の先生に頼り、先生もそれに応えるのが職務であるかのように思っている国は、日本しかないのではないでしょうか。多くの国では自己責任ですから。極端な話、生徒が受かろうが受かるまいが学校は構わないのです。したがって、偏差値は使うことも出来ないし、使う必要もないのです。韓国でも台湾でも、予備校へ行ったり、家庭教師についたりして、入学試験のためにかなりハードなトレーニングを受けると聞いています。

Q: 日本の大学入試制度についてどのように思いますか?

A: 最高学府の先生たちが、教科ごとの試験の生の得点を合計して選抜資料として使っているのは、同じ国の人間として恥ずかしく思います。しかし、大学入試制度は選ぶ側の文科省や大学のものであり、受ける側の者はそれに従うより道がありません。ですから、私などがどうのこうのと論じても所詮、意味の無いことです。ただ、学力試験をやらないAO入試、あれは学生の質を低下させたり、高校教育を失墜させる原因になっているのではないでしょうか。私の個人的な印象に過ぎませんが・・・。日本人の国民性や教育風土に合わない制度の様に思えるのです。AO入試はもともと、ペーパーテストで測れない能力を尊重して選抜をしようという大学側の試みでしょう。アメリカで始まり、慶応大学あたりが率先して行ったようですが、日本の高校では、一般的に教科のカリキュラムの範囲外(極端の場合は入試科目以外)の勉強には身を入れないような風潮がまかり通っているようですから・・・。
質問の趣旨が、1点の差で合否を分けたりするような入試制度でもよいのかという意味だったとしても、それでいいと私は思います。なぜなら、大学は受験生の真の学力を知らないのですから、学力試験で1点でも高い得点の者を学力的に優れているものと見なし、真の学力の高い者の方を不合格にして、真の学力が低い者の方を合格させたとしても、大学としては些かの痛痒も責任も感じないわけですから。

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 仮に、センター試験で偏差値を用いて成績評価をしたとしても、真の学力の1点差までは、測ることはできません。テストは、やるたびに得点が同じになるとは限りません。試験の点数は、問題の難易度で異なりますが、学力は相対的にはほとんど変わりません。ならば、偏差値60の生徒はいつも平均値(=50)より10ポイント高い成績が取れるような気がします。しかし、実際にはそうなることは稀です。試験は一種の測定ですから、測定値には誤差は付きものだからです。学力テストのような間接的な測定では尚更のことです。したがって、その誤差をきちんと計算に入れて受験計画を立てないと、取り返しのつかない結果招くことがあります。私は、学力テストの測定誤差の揺れについて調査したことがあります。高校入試関連のテストに限って言えば、偏差値で±3ぐらいの範囲で成績が変動する確率が60%前後でした。厳密には 揺れ幅は各人各様です。私でも本番のテストで取る成績の範囲と確率は予言できますが、試験当日、実際に取れる成績は、どう知恵を絞っても予測することが出来ませんでした。つまり、本番の試験では、平均的学力より高い側の成績が出るのか、それとも低い側の成績が出るのか、 神様だけしか知らないということです。したがって、この闇の部分を私は『テストの神様の裁量分』と呼ぶことにしています。

Q: 日本の教育制度を改善するには、今,何が必要ですか?

A: 一番肝心なことは、教育制度を考える前に先ず,親や地域社会が子どもたちを予備校や塾に頼らなくてもよい、問的思考のできる子どもに育てることです。言い方を変えれば、小学校へ入学する前までに学問をする素地を身に付けさせておくことこそが肝要です。勉強の出来ない子供は、生まれつき頭が悪いのかというと、大部分の子供はそうではなく、習得すべき事項を頭の中へ導きいれるネットワークが育っていないだけのように考えられます。そうならないためには、1歳から3歳ぐらいの物心がつく頃までに、新しい情報に接するごとに、体系的に考えて処理するという生得的な習性を磨き育てるように配慮してやることが大切です。人間の赤ちゃんは、新しい情報に接した時、その情報をストレート取り入れ、それを弁別や統括して、然るべきところにしまっておく能力が、等しく備わっているそうです。親は、授かったこの能力が順当にうまく伸びるよう、必至の願いを込めてアプローチすることが先決です。こうして形作られた思考習慣を私は『各人の固有文化』と呼ぶことにしています。“子は親の背中を見て育つ”といわれるように、子どもの固有文化の発達には、親の生き様や家庭の雰囲気が大きく関わるようです。教育制度改革を叫ぶ前に、官公吏・教員・親といった子どもの教育に携わる人々が、就学前の子どもの教育に関する認識を改めない限り、日本の教育はこれ以上良くならないように思います。

注 ) 偏差値:あるグループの学力や身長のような事物の特性を測定したとき、個々の測定値の相対的位置を測定値の散らばり具合を統計学的に処理して得た数値(標準偏差)を単位にして、表した数値のこと。
これは、正統の統計学ではZ得点(Z score)と呼ばれ、標準得点(standard score)の一種で、正規分布に対応する。代数的には、個の測定値(得点)X,グループの平均値をμ、標準偏差をSとした時の偏差値(Z)は次の式で与えられる。= 10(X- μ)/ + 50
本来正規分布になるべき属性についての測定値の分布が測定の何らかの不都合によって、正規分布にならないときは、所定の手続きによって正規分布に対応するように変換(正規分布化)して得た数値をZ- scoreに準じて用いることが多い。この正規分布化して得た数値をT 得点(T score)という。

参照文献

岩原 信九郎(1955年)『推計学による新教育統計法』(6版)、日本文化科学社

岩原 信九郎(1957年)『教育と心理のための推計学』、日本文化科学社



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HTML: http://jalt.org/test/kuwata_sainew-j.htm   /   PDF: http://jalt.org/test/PDF/Kuwata-j.pdf

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