小学校から高校まで、日本の学校教育の中で偏差値の洗礼を浴びない子供はほとんどない。そして偏差値に一喜一憂した思い出を持つ大人も少なくない。偏差値が登場したのは、1960年代の中頃。それが受験生の学力を測る「ものさし」、あるいは人々の優劣を示す指標として、またたく間に日本社会に浸透した。受験生にとって恐怖の「偏差値」も 受験指導をする側にとっては、強力な説得力を持つ便利な道具として、50年間、その威力を発揮してきた。しかし、その一方で偏差値遍重教育の元凶として厳しい批判も浴びている。これほど日本人にとって馴染み深い「偏差値」だが、意外にもこの偏差値について、理解と知識を持つ人は少ない。そこで偏差値の生みの親とされる桑田昭三氏に「偏差値」について語っていただいた。
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A: 東京都の教員になって2年目、『志望校判定会議』が開かれた時のことです。進学を志望する生徒一人一人の校内テストの成績と志望校を成績順に印刷した一覧表を前にして、進学係の先生が「この生徒はまずは問題ないでしょう」「この生徒は1ランク下の学校に変更するよう指導すべきでしょう」と、判定結果 を順次発表していくのです。ところが私が受け持つ生徒が、一番違いで志望校変更の宣告を受けてしまったのです。生徒に「君の力なら大丈夫! 心配せずに頑張れ!」と励ましたばかりでした。それを今さら「1点足りないから1ランク下げなさい」とは言えません。頭の中が真っ白になってしまった私は、夢中で「どうして?論理的な説明をお願いします!」と、執拗に迫りました。しかし、進学係の先生から「判定は、前年度までの合格状況と私たちの勘を総合した結果だとしか、説明できない。この判定が不服だとする根拠を桑田先生こそ、『論理的』に説明して頂きたい」と逆襲されてしまいました。このことがきっかけとなり「これでよいのか、お前も教え子たちも!」と自問に苛まれた末、進学指導の科学(後の偏差値)への挑戦を決意しました。[ p. 7 ]
私の編み出した「偏差値」は、アメリカから移入された相対評価の土台になっていた正規分布(Normal distribution)のアイデアを応用したテストの得点法の一種です。当時は「正規分布曲線」を「正規分配曲線」あるいは「正常分配曲線」などと呼んでいました。これを解析し、分配の原理を極めていけば、受験生の学力分布に到達し、受験生の学力分布の原点を極めれば確率論にあたる。つまり、順を追って数学的・統計学的理論に結びつけて組み立てることで、1点の得点差で合格、不合格が分かれることも志望校判定基準の確かさなども説明できるようになるはずだと考えたのです。[ p. 8 ]
そして偏差値に関わるようになったお陰で、評価をもっと大事にしなくてはいけないと思うようになりました。偏差値を編み出すまでは、評価において、どの1点も同じ1点だと思っていました。それが毎回全く価値の違う、数学的操作の出来ない数値であることを知りました。それまでは、教科の評価をするのに学期内に行った複数回のテストの得点を合計し、その総点の高い人から順位を付け、『5』、『4』という評価の仕方をする先生はごく普通に見られました。こうした方法が、大きなしかも初歩的な誤りをしているとは夢にも思いませんでした。もちろん評価では、この成績が力一杯勉強した結果の得点なのか、そうでないのか、学習態度はどうだったのかなどなど、個々の生徒の顔を思い浮かべながら、よく検討しなければなりません。評価することは、褒めることと同じです。評価は、生徒にとって先生がどのように自分を見ていてくれるのか、あらためて問い直すことであり、同時に先生にとって、「教授すべき事柄を確実に伝えることが出来たのかどうか」自らを評価することだと思います。ですから、「教育とは何か?」と問われたとき、「教育って思いやりよ」、「教育とは願いよ」と、自分自身に返すようになりました。[ p. 9 ]
仮に、センター試験で偏差値を用いて成績評価をしたとしても、真の学力の1点差までは、測ることはできません。テストは、やるたびに得点が同じになるとは限りません。試験の点数は、問題の難易度で異なりますが、学力は相対的にはほとんど変わりません。ならば、偏差値60の生徒はいつも平均値(=50)より10ポイント高い成績が取れるような気がします。しかし、実際にはそうなることは稀です。試験は一種の測定ですから、測定値には誤差は付きものだからです。学力テストのような間接的な測定では尚更のことです。したがって、その誤差をきちんと計算に入れて受験計画を立てないと、取り返しのつかない結果招くことがあります。私は、学力テストの測定誤差の揺れについて調査したことがあります。高校入試関連のテストに限って言えば、偏差値で±3ぐらいの範囲で成績が変動する確率が60%前後でした。厳密には 揺れ幅は各人各様です。私でも本番のテストで取る成績の範囲と確率は予言できますが、試験当日、実際に取れる成績は、どう知恵を絞っても予測することが出来ませんでした。つまり、本番の試験では、平均的学力より高い側の成績が出るのか、それとも低い側の成績が出るのか、 神様だけしか知らないということです。したがって、この闇の部分を私は『テストの神様の裁量分』と呼ぶことにしています。参照文献
岩原 信九郎(1955年)『推計学による新教育統計法』(6版)、日本文化科学社[ p. 10 ]